一足早いお正月休み、どこか電車で行けるのどかな場所はないかとぼんやり地図を見ていたら、和歌山県との境に「山中渓(やまなかだに)」という駅を見つけたので行ってみた。
しかも駅前に大変良い感じの大衆食堂さんがあるようだ・・・!と遥々電車を乗り継いでやってきたが、お店はお休みだった。
それにしてもこの佇まい・・・!!
では、この駅前から散策を開始する。もうすぐ先は山地、和歌山県との県境。大阪府の南の果ての地は山間の穏やかな集落だった。
車通りの多い府道の隣に500mほど並走する紀州街道の山中宿。熊野街道という表示もある。
ショックだ・・・写真が何枚か消えている!!
府道64号から入り込む山中宿の入口には道祖神(塞之神)の石祠があり、街道からの悪いものの侵入を防いでいた。紀州藩は江戸時代に罪人や悪疫の病人を和泉国に追放していた。それが毎年12月20日だったため、この辺りの人々は「はての二十日のろうばらい」といい扉を固く閉めきり悪疫の退散を願っていた・・・そこにあった立て看板にはこのようなことが書いてあった。紀州藩さん・・・涙
紀州街道には石畳が敷かれ、「歴史のみち」と名付けられていた。立派な古民家がかなり残っている。
非常に素朴な持ち送りを見た。自然木から削り出した風合いのままで、質実剛健。
500mほどの宿場町の通り、前半の写真をほぼ消してしまったようだ・・・。今こうしていてもまた撮りに行きたい衝動に駆られている。
旅籠「とうふや」の跡。看板だけがその存在を留める。
左手の建物は江戸時代中期の建物。この辺りを統括した庄屋さんの旧御屋敷。
鬼瓦も煙出しも立派である。
立派な持ち送りのこのお宅、軒下には木製の機関車のおもちゃが並んでいた。
大通りの府道に合流し、宿場跡は終わるようだ。
その合流箇所にあった立派な石碑は諸国霊場巡礼碑という立札がついていた。百八十八箇所は多い!
引き返す。
なんとも味わい深いほんの一角。
地福寺さんというお寺さんがあるようで、横道へ入ってみた。
石垣と、細い水路。
先ほど宿場町の入口(出口)で見た道祖神に似た石祠がこの細道沿いにもあった。
不思議なことに、鉛筆がたくさん入っている・・・というか供えられている?
小さな袋にもちびた鉛筆がぎっしりと。ここは筆塚ならぬ鉛筆塚。地図には「筆神さん」と記されていた。その土地の方々にしかわからない信仰の姿に出会えるのは無上の喜び。
その筆神さんのお向かい、一軒普通の民家の一部かと思いきや、「山中公立小学校跡」という看板が。明治5年の学制令でこの辺り一帯の寺子屋を廃し合同の小学校が設立されたそうだが、この山中渓は遠隔地だったため陳情しこの地に独立した小学校設立が許可されたとの由。
この立て看板に「筆神」さんのことも併せて紹介されていた。
この細い道の先に山寺然とした地福寺さんがある。
「地福寺」さん、検索しても山号はないようだ。浄土宗知恩院の末寺とのこと。
手水舎が立派な井戸だった。
地福寺境内の子安地蔵尊。子宝の霊験あらたかとのこと。
奉納額がめでたいね。
松の枝。お正月だからだろうか。それとも通年か。
寺務所かな?屋根には桃や鬼の瓦に、立派な煙出し。
この日、お寺の脇の墓地にはお墓参りに来られている方が結構いた。この辺りの習慣?それとも年末年始の帰省に合わせてのお墓参りだろうか。
集落を見下ろす高台のお寺は好ましい。ここから鐘の音が響く様はさぞや清々しかろう。
さて、山中宿のメイン通りからもう一か所横路地へ寄り道。
木立の中に山中神社。祭神は八王子神。
社殿は小柄。手前には馬目王子社も祀られている。熊野詣の修験者により12~13世紀にかけて組織された神社群を九十九王子というそうだ。熊野詣の街道に点々と在し、貴族の参拝所や休憩所ともなっていたという。この馬目王子社はそのうちの一社。ここが熊野街道たる所以。
山中神社の境内社(碑?)。
さて、この旧山中宿の通りからは少し離れるが、駅も越えてしばらく和歌山県方面へ歩いていくと、山中関所跡がある。
「奉納大乗妙典」の碑。法華経を奉納した六十六部供養塔。
駅へ引き返す。・・・青い瓦を背景に、柚子。美しい冬の色彩。
山中渓駅は小さい駅だが相対式ホームなので跨線橋を渡っていると、特急が通過していった。
小さな小さな待合室。
閉まっていた食堂が見える。再度挑戦したい・・・。
ホームのすぐ脇の山中川沿いには桜の木。春は美しいことでしょう。
(2022.12.29)